レイキの歴史-臼井靈氣療法から西洋レイキへ

レイキ発祥の地、京都の奥座敷・鞍馬山でレイキヒーラー養成講座を開催している、ねうです。

「レイキ」と一言でいっても、現在世界にはさまざまなレイキの流派があります。日本で一般的に伝えられているレイキのほとんどは、一度海外に出てから逆輸入された、いわゆる「西洋レイキ」と呼ばれるものです。

西洋レイキや伝統レイキがどのように違っているのか、という疑問をもっている方も多くいらっしゃいます。

この記事ではレイキの歴史を紹介しながら、レイキヒーリングがどのようにして生まれ、どういう経緯で今のレイキとなったのかについて解説をしていきます。レイキの歴史を知ることで、西洋レイキや伝統レイキの違いについて、理解を深めることができるでしょう。

【目次】

・臼井靈氣の発祥

・臼井先生時代のレイキ

・林忠次郎氏によるレイキの発展

・臼井靈氣療法が日本からハワイへ

・日本では消えてしまった臼井靈氣療法

・まとめ

臼井靈氣の発祥

現在「レイキ」として知られているレイキヒーリングは、もともと大正時代に臼井甕男(うすいみかお)という方により、始まりました。

現在のレイキヒーリングの母体となっている臼井靈氣の創始者である臼井甕男氏は、江戸時代最後の年号である慶応時代に生まれました。臼井先生は、人生をとおしてさまざまな職業につきながら、「人はどうして生きているのか」「人生の目的とはなんなのか」「人はどのようにして生きていけばいいのか」などといったことについて探究を続けていたようです。

臼井先生は非常に多才で、歴史や医学書、仏教やキリスト教、心理学、神仙の術、呪術、易学、人相学など、さまざまなことを学ばれていたようです。それもすべて、「人はどうして生きているのか」「人生の目的とはなんなのか」「人はどのようにして生きていけばいいのか」といった問いへの答えを求めるための学びの一環だったのではないかと思います。

これらの学びをとおして、臼井先生は「人生の目的とは安心立命を得ることである」ということを確信されます。しかし、知識として理解することと、体感として腑に落とすことの間には、大きな壁があるものです。

この「安心立命を得ること」を体感として腑に落とすため、臼井先生は京都の禅寺にて悟りを得るための修行をはじめられます。時代は明治時代から大正時代に入っていました。しかし、どれだけ修行をしても悟りをひらくことはできませんでした。行き詰まった臼井先生が禅の師に相談をしたところ、師は「では、一度死んでみたらどうか」と答えたのだと言います。

この師からの答えを受け、1922年(大正11年)、臼井先生は京都の霊山として知られている鞍馬山に籠り、断食瞑想の修行に入ることを決心しました。悟りをひらくまでは決してここから立ち上がることも、断食をやめることもしない、という、死を覚悟したものだったそうです。

臼井先生が鞍馬山にて断食瞑想をはじめてから21日目の夜のことです。臼井先生は突然、雷にあたったかのような強い衝撃を受けて、気を失われました。そのときに、宇宙と自分はひとつであるという「宇宙即我、我即宇宙」という悟りを体得されたのです。そして、宇宙に満ちている “靈氣” と自分自身のエネルギーが完全に調和している感覚を感じられたのだと言われています。

ついに長年の夢・目標であった悟りを得ることができた臼井先生は、鞍馬山を下山することにしました。沢に降りて水を飲もうとしたところ、足を滑らせてしまい、足の爪が剥がれてしまいます。その痛みに、思わず爪の剥がれたところに自分の手を当てた臼井先生は、すぐに痛みが引いていったことに気づきます。手を離してみると、剥がれたはずの爪が治っていたとのことです。

そのまま下山した臼井先生は、お茶屋さんで「歯が痛い」と頬が腫れてしまったお茶屋の娘さんに出逢います。そこで、臼井先生がその娘さんの頬に手を当ててあげると、彼女の歯痛が瞬時に治り、頬の腫れも引いてしまったのです。この辺りで、臼井先生は、悟りをひらいたことで、自分に人を癒すことのできる能力が宿ったことに気づきました。宇宙に満ち満ちている “靈氣” と呼ばれてきた神聖なエネルギーが、自分のエネルギーと調和し、自身の手を介して他者のなかのエネルギーも、この “靈氣” と響きあい、調和することで癒しが起こるようになったのだそうです。

臼井先生は自宅に帰った後、ご家族や周囲の方にも手を当てて癒していく手当療法を実践していきました。その効果が明らかとなったとき、「このような天から与えられた能力を、自分たちだけで独占してはいけない」と考え、鞍馬山で悟りをひらいた翌月には、東京の青山原宿にて「臼井靈氣療法学会」を設立しました。このときから本格的に靈氣療法を実践し、また公開伝授も積極的におこなっていったそうです。

1923年(大正12年)に関東大震災が起こった際には、被災地を巡回し、多くの人に靈氣療法を実施して人々を癒していきました。これらの活躍から、臼井靈氣療法学会はたくさんの人に知られることとなり、門下生もあっという間に数千人規模に増えていったようです。その後、増え続ける門下生や靈氣療法を受けたいと望む人たちによって、今までの道場が狭くなってしまいます。そこで1925年(大正14年)に東京郊外の中野に道場をうつし、そこで引き続き、精力的に活動を続けていかれました。

臼井先生時代のレイキ

臼井先生がご活躍されていた大正時代は、さまざまな霊術や手当療法が一般に受け入れられていました。その中でも臼井靈氣は、特に海軍の上級士官を中心に、哲学者や政治家などにも信頼されていました。なぜこれが分かるかというと、臼井先生によって神秘伝(今でいうところのレイキマスター)を伝授された21名の名簿が存在しているからです。そのうち少なくとも5名の方が海軍の上級士官でした。

その他にも学者や政治家、大学教授や哲学者など、当時の日本において社会的地位の高い人たちが、臼井靈氣療法学会の会員であることがわかっているのです。

また、当時の臼井靈氣は「治療」としての側面を強く持っていました。現在の日本でのレイキヒーリングは、どちらかというとリラクゼーション効果などに重きをおいた “ヒーリング” の立場をとっています。しかし、当時の日本で一世を風靡していた靈氣療法は、さまざまな病気や怪我などを治療していく、ある意味では代替医療としての立ち位置にあったようです。

林忠次郎氏によるレイキの発展

レイキの歴史について語る上ではずせない人物の一人に、林忠次郎先生がいらっしゃいます。

林先生は、もともとは海軍大佐で、軍医であったそうです。海軍を退役後、臼井先生から今でいうレイキマスターにあたる神秘伝を伝授されました。その際、「医学的見地から臼井靈氣療法をより進化させてほしい」と指示をされました。これを受けて、林先生は現在の東京・新宿区にて「林靈氣研究会」を設立。臼井靈氣療法をベースにして、医学的知見からの独自の理論や技法をおりまぜた独自のスタイルを確立させていきます。後に、この林先生のスタイルが西洋レイキの礎となっていくことになるのです。

臼井靈氣療法が日本からハワイへ

レイキヒーリングが現在世界中で信頼されるヒーリングメソッドとなったきっかけは、林先生と高田はわよさんとの出会いにあります。

高田先生はハワイ生まれの日系女性でした。彼女はハワイにて難病を患い、お医者様もどうにも手の施しようがないと言われてしまう状態だったそうです。余命いくばくと宣言されてしまった高田先生は、昭和10年に日本へ帰国なさいました(この頃には、臼井先生はすでに亡くなっています)。

日本にて手術を受けようと、手術台にのぼった高田先生は、「手術をする必要はない」という不思議な声を聞きました。なぜかこの声に従わなければいけないと直感された高田先生は、手術台を降りることにしました。このときに、東京にて有名になっていた靈氣療法を紹介されて、林先生の治療所を訪れることとなったそうです。

林先生の治療所にて靈氣治療を受けた高田先生は、3ヶ月ほどで今までずっと苦しめられていた症状が消え、8ヶ月後には病気自体が完治しました。この結果にたいそう驚き、また感動した高田先生は、そのまま林先生のもとに入門し、奥伝(今でいうレベル2程度)までを取得して、ハワイに帰国されました。

ハワイに帰国された高田先生は、現地でレイキ・クリニックを開業されます。そしてハワイにて、靈氣療法の治療をおこなうようになったのです。その後、1938年(昭和13年)に林先生がハワイに来てくださった際に、林靈氣研究会の神秘伝を取得されます。こうして、高田先生自身も、レイキマスターとして、現地の人たちにレイキを伝授していくことができるようになったのです。しかし、どういう経緯か、高田先生は神秘伝を取得してからも、長い間、現地の人たちにレイキを伝授することはありませんでした。これにはもしかしたら、昭和16年から昭和20年まで続いた、太平洋戦争が影響していたのかもしれません。

太平洋戦争は、日本軍が真珠湾を攻撃したことではじまっています。日系ハワイ人として、高田先生は日本人の文化や精神性を受け継いでいる靈氣療法の真髄を、どのようにしてハワイの人々に伝えていけばいいのか、ということで深く悩まれていらっしゃったのではないかと思います。

しかしその後、晩年になって、高田先生は20名を超える方々に神秘伝を伝授されます。この22名によって、臼井靈氣はREIKIとして瞬く間に世界に広がっていきました。その後、わずか20年足らずで、世界中で500万人を超える人がレイキを活用するようになったのです。

日本では消えてしまった臼井靈氣療法

太平洋戦争からはじまった第二次世界大戦の影響は、ハワイの高田先生だけではなく、日本の臼井靈氣療法学会や靈氣療法の実践者たちにも大きな影響を与えました。

東京大空襲の際には、臼井靈氣療法学会にて保管されていた、臼井靈氣療法に関わるほとんどの資料が消失してしまったのだそうです。また、戦後の日本では、大正時代まで当たり前におこなわれていたさまざまな霊術や呪術といった民間療法が禁止されていきます。この中には、靈氣療法も含まれていたようなのです。臼井靈氣療法学会は現在も直接の紹介性のみ、という、かなり門戸を閉ざした形ではあれ、継続しているようです。しかし、実質、日本での靈氣療法はほとんど無くなってしまったといっても過言ではなかったのでしょう。

当時の日本では、公に靈氣療法をおこなうことはできず、靈氣療法を学んでいた人たちが自宅でひっそりと、自分の家族や身内のみに靈氣の治療を行なっていく、というような形で、細々と継承されていきました。そのように継承され現在にまで続いているのが、直伝靈氣と呼ばれるレイキの流派です(これは林先生からの系統となります)。

戦前に、林先生を介して、高田先生が靈氣療法をハワイに持っていっていたことで、靈氣療法は完全に消失することなく、今日まで残っているのだと言えます。

その後、世界に広がったREIKIは、1980年代の後半になって「レイキ」として日本に逆輸入される形となりました。これが、現在のほとんどの日本のレイキヒーラーが使っている「レイキ」になります。しかし、戦争を経て、世界に流れていった靈氣療法は、その流れの中で、日本古来の精神性といったものの多くは失われ、またさまざまなオプションが付け加えられたり、解釈がすこし異なった形で継承されてきてしまった事実もあります。このように海外を経由して日本に帰ってきているレイキを「西洋レイキ」と呼びます。現在の日本で学ぶことのできるレイキヒーリングのほとんどすべてが、この「西洋レイキ」であると考えて問題ありません。

まとめ

「レイキヒーリング」として知られているレイキは、臼井甕男氏によって、大正時代、京都の鞍馬山にて発祥しました。その後、大正時代には靈氣療法として一世を風靡しますが、太平洋戦争や第二次世界大戦の影響を受けて、日本からはほとんどその姿を消してしまいます。しかし、臼井先生の直弟子であった林先生から伝授を受けた日系ハワイ人の高田先生のおかげで、臼井靈氣は「REIKI」として世界中に広がりました。世界に広がった「REIKI」が日本に逆輸入という形で戻ってきたことで、現在の「レイキ」として日本でも再び使われるようになったのです。

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ねう

幼少期から自己肯定感の低さ、ネガティブ思考、自分らしさがわからないといった「生きづらさ」を抱えていた。「人はなぜ生きているのか」「どうすれば幸せになれるのか」という問いに対する答えを求め、哲学・心理学・スピリチュアリティを探求し続ける。その結果、日本古来の精神性を思い出していくことこそ、苦しみを卒業して幸せに生きる方法であるという気づきに至った。

レイキ・ヒーリングサロン&スクール "Soul & Self" を立ち上げ、これまでの学びの集大成である『伝統靈氣道』を通して、日本古来の精神性を目覚めさせることを天命として、京都・鞍馬山を中心に活動している。

https://www.soul-and-self.com
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